2017年4月 「復活のしるし」 ヨハネによる福音書20章1〜10節

 イースター礼拝で洗礼式がありました。洗礼式は、牧師にとって、教会にとって、特別に嬉しいことです。牧師や教会や本人の努力の結果ではなく、ただ、神の恵みを受けて喜ぶのです。洗礼に至るまでに、様々な人生があります。自分の記憶にない出来事の方が多いでしょうが、神様は、母の胎内にいた時から、私たちを御存知です。先にキリスト者になった者たちを用いて、教会へと招き、洗礼へと招いてくださいました。それぞれ違いある私たちを招いて、洗礼を授け、教会の一員・キリストの体の一部分とされます。洗礼は、イエス・キリストによって新しく生まれ変わるしるしです。自分中心の「罪ある私」が死に、「罪赦された者」として、新しく生きる・・・キリストと共に死に、キリストと共に「復活するしるし」です。
 三日目の日曜日の朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアがお墓に行きました。遺体に香油を塗るためです。墓の入り口の大きな石が動かされていて、中がのぞけます。遺体がありません!マグダラのマリアは、走って行って、ペトロとヨハネに伝えます。二人が、墓に走って行きます。若いヨハネが先に着き、中をのぞくと、亜麻布が置いてありました。ペトロが到着し、先に墓に入りました。亜麻布が置いてあるのを見ました。頭を包んでいた覆いが、離れた所に丸めてありました。
その状況から、すぐに、イエス様が、復活されたと喜ぶはずがありません。確かに遺体がないというマリアの言葉を、見て信じましたが、復活を信じたわけではありません。まだイエス様が言われていた復活を理解していなかったのです。
 「復活」と題するDVDを観ました。主人公は、総督ピラトの下で、十字架刑に関わったローマの司令官です。茨の冠をかぶせられ、手と足を十字架に釘づけされ、「ユダヤ人の王」との罪状書きのイエスの死を見届けたのです。墓を大きな石でふさぎ、ローマの封印を押します。ところが三日後、ピラトから「イエスの遺体を探せ。遺体が腐ってイエスだと分からなくなる前に、必ず探し出すのだ」と命令されます。処刑場の死体置き場を探し、新しい墓を掘り起こします。が、見つかりません。遺体を盗んだとされる弟子たちの隠れ家を探し出しました。が、そこで見たのは、弟子たちと一緒にいるイエスの姿です。確かに、自分の目の前で十字架につけられて死んだあの男が、弟子たちと一緒にいます!その続きは、作品をご覧ください。
当時、復活を信じない人、弟子たちを迫害する人も、「これがイエスの遺体だから、復活などしていない」との証拠を示すことが出来ませんでした。「これが骨だ」という物もありません。「これが、イエスの遺体を包んだ布だ」と言う聖骸布はあります。「墓の中に、亜麻布だけが置いてあった。頭の覆いは離れた所に丸めてあった」と伝えますが、弟子たちにとって、墓に残された亜麻布が復活の証拠ではありません。復活したイエス様に、自分たちが出会ったことが、復活の証明なのです。復活の証人になったのです。
亜麻布…聖骸布が本物かどうか、科学的な調査もなされましたが、聖骸布の信憑性よって、復活を信じるか信じないかではありません。目には見えませんが、今も生きておられるお方イエス・キリストにお会い出来るかどうかです。どうしたらお会いできるのでしょうか。求めて祈るなら、主の働きかけに気付きます。
 復活の主は、力弱い者たちを用いて、救いの御業を進めるお方です。時と場所を越えて、働いて下さっているのです。み心にかなう祈りは、自分が知りえないところでも実現するでしょう。「三日目に、よみがえり、天に昇り、全能の神の右に座したもう」お方が、今も教会を通して、救いの御業をなされるしるしを見ます。礼拝を通し、洗礼を通し、聖餐を通して、主イエス・キリストによる罪の赦し・救いを、喜び、感謝し、新たにされた者として歩むのです。復活の主よ、あの人も、あなたにお会いできますように。




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