2020年4月  「復活を信じなかったが」
マルコによる福音書 16章9〜13節

   イエス・キリストの復活を信じているか。信仰者として最も大事なことです。イエスの復活について、4つの福音書が記しています。具体的場面で、少しずつ、違いがあります。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書は、復活に出会った弟子たちや婦人たちからその出来事を聞き、人々に伝え、福音者記者たちに、伝えられました。(ヨハネはその場にいた者として記します。)違いはなぜあるのでしょうか。伝言ゲームのように違ってしまったのではありません。

 私の孫たちは、亡き夫である祖父を直接知りません。祖父が亡くなった場所は、遺影がある久喜復活教会なのか、がんセンターなのか。臨終の場にいたのは、山野裕子と末息子Kか。家族皆がいたのか。確かに皆が集まって来ていたのですが、厳密に言うと、孫たちが知らないS市の牧師宅で、その時、私と長女Mが家にいたのです。皆が、多少、勘違いしているかもしれません。そうだとしても、孫である自分たちが生まれる前に、牧師だった祖父が、埼玉県内で亡くなり、臨終の場に山野裕子がいたことぐらいは共通でしょう。

 イエス様の復活の場面で、4福音書に共通なのは、日曜日の朝早く、墓の大きな石がどけられていて遺体がなかったこと、復活を告げられた事、マグダラヤのマリアがその場にいたことです。記録を容易に遺せる時代ではありませんし、多少違いがあって伝えられたのは、かえって、当時の、恐れ驚き、頭が真っ白になった現実、信じなかった現実が表れているのです。嘘をつくためには、口裏を合わせるのです。そうしてないだけなのです。

 マルコによる福音書は、16章8節の「婦人たち(マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメ)は墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」という文で終わっていました。9節に丸かっこがついています。のちに続きが書かれたのです。

 マグダラのマリアに、復活の主が、お姿を現されました。マリアは、以前イエス様に、七つの悪霊を追い出していただいた婦人であると説明しています。マルコによる福音書に、マグダラ出身のマリアが七つの悪霊を追い出していただく場面はありません。ルカによる福音書8章2節には、イエス様が、神の国を宣べ伝え、町や村を巡って旅された時、12弟子と病気を癒された婦人たちも一緒だったとあり、その婦人たちの中に「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア」と名前が記されています。マルコによる福音書は、4福音書で最も古い書物ですが、加筆されたのは、ルカによる福音書を読んでからでしょう。

 イエス様の死を泣き悲しむ 一緒にいた人々に、マリアは、「イエス様は生きておられます」と、自分が見たことを伝えました。 が、信じてはもらえませんでした。当時、女・子どもの証言は、まともな証言として認められませんでした。 特に、七つの悪霊に取りつかれていたマリアの言葉は、悲しみのあまり、 正気でなくなったと、人々に思われるだけだったでしょう。

 12節からでは、この後、弟子の中の二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエス様が姿を現わされました。ルカによる福音書24章13節からでは、エマオに行く途上の出来事として記しています。この二人も弟子たちに知らせました。が、信じてもらえません。今度は、成人男性二人の証言ですから、当時のユダヤ社会では、証言として有効なのです。が、それでも信じなかった…と言います。 死人の復活です。信じなかったのはあたり前なのでしょう。

 しかし、人は、昔から復活を信じていました。 別の世界での復活です。天国か極楽あるいは地獄で、生きると考えました。 あるいは、この世界で、別のものに生まれ変わって生きると考えました。あるいは、身体はなくても、魂は不滅で、生き続けると考えました。 死んだ後、息を吹きかえしたという話も当然あります。 ただ、やはり、いつかは死んで、 遺体を遺すのです。行方不明になっても、遺体や遺骨を探し続けます。イエス様の場合だけ、「遺体がなかった。イエス様にお会いした。」との証言があるのです。この証言は、作り話ではできません。命がけで証しすることになりました。「殉教者」のギリシャ語での元の意味は、「証言する者」という意味です。

 「復活を信じなかった」…で終わりませんでした。「復活を信じなかったが…」イエス・キリストが現れてくださって、信じる者・復活を証しする者に変えられて行くのです。信じなかった者が、信じられるようにと、復活された主の方から、示して下さる時が来ます。信仰を祈り求めましょう。祈りに応えて下さるお方です。

 コロナウイルス感染症から命を守ろうと働き続けている医療従事者を覚えて祈りましょう。この疫病から守られるように互いに祈り合いましょう。しかし、たとえ、命を失うことがあっても敗北ではありません。死に打ち勝ち復活された主の約束「永遠の命」に与る希望があるからです。




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