20205月 「信仰のないわたしをお助けください」 マルコによる福音書 91429節 

 

 マルコによる福音書914節の「一同」とは、イエス様とペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子たちです。この箇所の前9213節に、イエス様と3人の弟子が高い山に登られ、イエス様のお姿が変わると言う出来事がありました。ヴァチカン美術館に「キリストの変容」というラファエロの絵があります。高さ4.1mの画面の上半分が、山上で栄光に輝くイエス様とモーセとエリヤ、そして弟子3人が描かれています。画面の下半分は、対照的に暗い背景で、うつろな眼差しの少年の周りで、人々が、誰かを指さしながら、何やらてんでに言い合っている姿が描かれています。

 イエス様と3人の弟子が山から下りると、ほかの弟子たちは、大勢の群衆に取り囲まれ、律法学者たちと議論をしていました。その議論は、霊に取りつかれた少年の癒しを巡ってのようです。群衆は、イエス様の姿を見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶します。イエス様が「何を議論しているのか」とお尋ねになると、ある人が息子について話します。その様子を聞けば、息子はてんかんであると分かります。ものも言えず、耳も聞こえなかったようです。父親は「弟子たちに、悪霊を追い出して、病気を治して欲しいと願ったのですが、できなかった」と言います。イエス様は、信仰のない時代を嘆かれます。そして息子をイエス様のところに連れてくるように言います。イエス様を見ると、その子はすぐひきつけを起こしました。地面に倒れ、転び回って、泡を吹きました。

 私は、大学4年生の時、1年間、牛眼による弱視とてんかんがある中学生の家庭教師を、住み込みでしました。そばで教えている時、時々小さな発作がありました。そして時々大きな発作を起こしたようで、母親から「今日は寝ていて、お休み」と聞きました。手足には、傷跡がいくつかありました。突然倒れた時に、傷を負ったのでしょう。教会に連れて行ったり、教会の青年達のキャンプに連れて行ったりしました。もう50年近く前のことですが、時々彼女を思い出して祈ります。

 現代は、てんかん発作を抑える薬で治療をしますが、2000年前には、悪霊に取りつかれたようだったのでしょう。マルコ福音書612節では、イエス様が12人の弟子に、汚れた霊に対する権能を授けて村々に遣わしています。弟子たちは「多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人を癒した」と記していたのです。ところが、このてんかんの少年に対して、弟子たちは無力でした。

父親は、イエス様のうわさを聞いて、息子を連れて来ました。弟子たちしかおらず、弟子たちは治せません。律法学者は議論するばかり。今も、息子は地面に倒れ、転び回り、泡を吹いているのです。父親はイエス様に「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」と願います。父親は「息子憐れんで助けてください」と言うのではなく、「わたしどもを憐れんでお助けください」と言います。父親自身も、この息子の命を守って生きることに疲れ果てていたのです。

イエス様は言われます。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」父親はすぐに「信じます!信仰のないわたしをお助けください!」と叫びます。「信仰のないわたし」です。息子の信仰ではなく、「わたし」の信仰が問題です。「信仰がない私をお助け下さい」と叫びました。

私たちは、病気の人や、困難な目に遭っている人のために祈ります。「誰々を助けてください。」「誰々を癒してください」と祈ります。しかしまず、「信仰のないわたしをお助けてください」と祈らなければならない者です。  

 26節で、多くの者が、「この子は死んでしまった」と言いました。27節。しかし、イエス様が手を取って起こされると、立ち上がりました。この「立ち上がる」は、「復活する」と同じ言葉です。この出来事の後、イエス様は、弟子たちに、再びご自分の死と復活を予告されています。

 私は、この聖書箇所を読みながら、牧師として、病人を癒す事ができない弟子たちに重ねたり、母親として、息子の癒しを願いながら「できるのなら」と疑いもある父親に重ねて、この場面を読んでいました。てんかんの息子に自分を重ねてはいなかったのです。しかし、この息子のように、親に連れられて、親の信仰を通して、イエス・キリストに出会い、救いに与った者でもありました。

故熊澤義宣牧師は、説教集「マタイによる福音書講解説教」の同じ場面の箇所で、次のように説かれています。「御言葉を通して何を示されるでしょうか。第1に、・・・山の上の栄光の輝きにとどまることをしないで、主が、問題に満ちた山の下へと下りて行かれて、その問題を真正面から取り上げて解決されたこと・・・山の下に下りられる主の道が十字架への道であり、また、弟子たちの道なのです。・・・第2に、弟子たちは父親の切実な願いに答えることの出来ない無力さを露呈してしまいました。弟子たちの無力は教会の無力でもあります。しかし、弟子たちに失望した父親は決して主イエスには失望しませんでした。彼は主の前にひざまずいて、問題のすべてを主に委ねたのです。今日も、またさまざまな面において教会の無力は露呈されることがないとは言えません。しかし、教会に失望しても、主イエスに失望することさえなかったならば、問題の解決が必ず与えられることがここで約束されているのです。第3に・・・弟子たるものが自分の信仰を誇るのではなくて、その解決者である主・・・主をさし示す限り、それは無力の力を発揮できるに違いありません。・・・信仰の真の実力とはこの無力の力なのです。」と。

 ラファエロの絵の画面下で、画面上のキリストを指す者がいます。弟子の一人でしょう。今、私たちの教会に託されているイエス・キリストを指し示す働きを、続けることができるかが、問われています。「私どもを憐れんでください。信じます。信仰のないわたしをお助け下さい!」とイエス・キリストに向って叫び、離れていても、教会の働きを覚え、互いに祈り合いましょう。

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