2022年9月 わたしの相談相手 詩編119:17〜24,マタイ6:25〜33

   先週、母の葬儀がありました。お祈りをいただきまして、ありがとうございます。母の101才11か月の人生の略歴には、誕生から始まり、進学、就職、結婚、子どもの誕生などが記され、何度も聖地旅行をしたことが記されています。私が知る、母の生涯を紹介するなら、毎日、3度の食事を作り、掃除・洗濯をし、家計簿と日記をつけ、聖書と信仰書を読み、父の翻訳の仕事を手伝っていた家庭での生活。毎週、礼拝・夕拝・祈祷会など、教会のほとんどの集会に出席し、教会で奉仕をして、教会生活を続けたこと。90歳を過ぎて、いろいろなことを自分でできなくなると、介護サービスを受けて、やはり、規則正しく食事を用意され、身辺の整理をしてもらいながら、生活をしました…とごく日常だった生活を紹介します。その生活を基本にして、幸いな人生を送ったからです。対照的に、毎日の衣食住を整えて生活をすることができない人たちがいます。料理も掃除・洗濯も、自分でできない人、あるいはそれを代わりにしてくれる人がそばにいない人の生活は、基本的な生活が整いません。その生活を、健やかな生活へと整え直す事は、そう簡単にはできないでいる人たちと関わっています。
  イエス様は、マタイによる福音書6章31節で「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存知である。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」と教えられました。「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」という悩みとは、「どんなメニューの食事をしようか」とか「どんなファッションにするか」という、いろいろ選ぶ悩みや作る悩みではありません。食べ物・着る物にも困っている貧しい人々に向かって、イエス様は「思い悩むな」と言われています。更に言われます。「何よりもまず、神の国と神の義を求める」ように命じられます。「神の国と神の義」とは、「神が支配されるところ」「神とつながって、正しい関係にある姿」を意味しています。神の教えを守る生活です。神の教えとは、聖書の言葉です。神の教えに聴き従う生活をするなら、必要な衣食住は、心配しなくても、一緒に与えられると言われます。
  今、主日礼拝で、ずっと詩編119編を交読しています。119編は、176節あります。アレフ・ベト・ギメル・ダレト…はヘブル語のアルファベットです。119編全体を通して、「主の掟、主の律法は素晴らしい」と褒め称えています。「主の教えに従って歩む人は、なんと幸いでしょう」と唄うのです。
  9節で「どのようにして、若者は、歩む道を清めるべきでしょうか。あなたのみ言葉どおりに道を保つことです」と言います。若い時は、きまりに従うより、自分の好きな思いで生きて行きたいと願います。道を外してしまうこともあります。しかし、神の御言葉に従う歩みは、決して不自由な生き方ではありません。堂々と生きる生き方なのです。罪を犯して後、不自由になってしまうことがない生き方です。22・23節で、「わたし」は、辱めと侮りを受けています。地位ある人々が、わたしのことを諮っているのです。しかし、「わたし」はただ、神の掟のみに心を傾けていようとしています。人から嘲りを受けるようなことがあっても、最終的には、神が正しい裁きをしてくださるので、人の歓心を買うことではなく、神の掟のみに心を傾けるのです。
  24節「あなたの定めはわたしの楽しみです。わたしに良い考えを与えてくれます。」新改訳聖書では「まことに、あなたのさとしは私の喜び、私の相談相手です」と訳しています。聖書協会共同訳では「あなたの定めこそ私の喜び、私の良き助言者」と訳します。神様の御言葉を、掟・定め・さとし…と訳しています。神の御言葉は、わたしに命令し、縛り、窮屈な道を歩ませるのではありません。神の御言葉は、私に、楽しみ・喜びを与える良き助言者・相談相手・カウンセラーなのです。
  私たちは、人生の中で、様々な出来事に出会います。どの学校を選ぶか、どんな仕事を選ぶか。迷う時は、それぞれの道に進んだ場合のメリットとデメリットを考え、リスクを考えます。そして、自分に有利と思う方を選びます。あるいは周りから期待される道を選びます。残念ながら選べずに、違う道になることもあります。そんな人生の歩み方をしているのです。しかし、そのような損得で選ぶのではなく、どの歩みが、神の御言葉に従うことになるのかと、思い巡らすのです。わたしたちの相談相手は、神の御言葉、神の教えです。神の教えが、人生の喜び、楽しみを産みだすのです。
  何を食べ、何を飲み、何を着ようかと、家族に相談する事はあるかもしれません。神様に相談しているでしょうか。私たちは、主の祈りで「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈っています。汗水流して働いたお金であっても、年金や生活保護費であっても、神から与えられているお金として、神様に相談して使うのです。自分だけが楽しむために、食べたり・飲んだり・着飾ることだけに使ってはならないのです。イエス様は、栄華を極めたソロモンでさえ、野の花の一つほどにも着飾っていなかったと言われました。神様に養われているものとして、先ず神との正しい関係を求めるように言われました。
  人生の中で、あの時期は辛かったと思う時期があります。いじめにあっていた、仕事に失敗した、病気になった、なぜこんな災難に遭ったのかと思う出来事もあります。詩編119編71節で「卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました」と。自分の考え・判断の愚かさを知るような目に遭った。これからどうしてよいか分からなくなる目に遭った。その時、謙遜に神の御言葉を聞かざるを得なくなるのです。御言葉に、慰められ、励まされました。
  母の葬儀の時、牧師から、母の愛誦聖句と愛誦讃美歌を尋ねられました。讃美歌や聖歌は、すぐ分かりました。母の聖歌に、愛唱聖歌と葬式用とが記入してあったからです。母が葬式用と記したのは、ずっと若い時です。その聖歌が歌われました。新聖歌203(聖歌610)の3節の歌詞は「最期の息引き取るときも、汝(な)が声を聞かまほし(あなたの声をお聞かせてください)。永遠(とこよ)の朝覚(さ)むるときには、共に歌わん御栄えを。そば近く居(お)らせ給えや。そば近く永遠(とこしえ)に」という歌詞です。
  英国のエリザベス女王の国葬のニュースで流れていた讃美歌120は、山野忠男牧師の葬儀でも歌われた讃美歌で、詩編23編を歌っています。詩編23編6節は「わたしの生きているかぎりは、必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。」
  毎週の礼拝で、聖句を暗唱しています。人生の折々に、そして日々の生活で、聖書の言葉を思い起こすためです。私たちの人生での良い相談相手となってくださり、聖書の言葉で、神様から、声をかけていただくのです。




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