| 2025年10月5日 罪の赦しを証しする 使徒言行録10:34〜43 |
今日は、世界聖餐日、世界宣教の日です。世界中の教会が、今日の礼拝で、聖餐式を執り行うでしょう。聖餐式で、パンと葡萄酒をいただきます。パンは、十字架にかけられて、裂かれたキリストの体を表し、葡萄酒は、十字架で流されたキリストの血を表します。聖餐に与る時、キリストの十字架の死によって、私たちの罪が贖われたこと、罪が赦されたことを、心に改めて刻むのです。そして、復活されたイエス様が天に昇られる前に、弟子達に命じられた「全ての人に、キリストの福音を宣べ伝えなさい」との命令に従う決意をするのです。
私たちは、それぞれのところから、出て行って、伝道をし、証しをします。ある者は世界へと遣わされるのです。かつて地の果てであった日本に、はるばる来られた宣教師たちがいて、日本にキリスト教が伝わりました。今は、日本からも世界宣教に派遣されています。10月の「教会婦人」紙には、台湾の教会とドイツのベルリンの教会に遣わされているお二人の女性宣教師についての記事が掲載されていました。久喜復活伝道所も、毎年、「世界宣教の日」を覚えて、わずかですが献金を送って支えます。
今朝の聖書箇所は、ペトロが、百人隊長コルネリウスの家を訪問し、初めてユダヤ人ではない異邦人に福音を告げたという出来事です。ユダヤ人たちは、異邦人の家に入るのは汚れる事であり、一緒に食事をすることはありませんでした。コルネリウスは、10章1・2節にあるように、カイサリアにいました。カイサリアは、皇帝という意味ですが、ローマの総督を始め、普段ローマの兵士たちが住むために地中海沿岸に作られた町です。イタリア隊と呼ばれる部隊の百人隊長でした。
その頃、ペトロは、9章の終わりにあるように、ヤッファという港町で、革なめし職人のシモンの家にいました。何の関係もないような二人に対して、神の働きかけがそれぞれにありました。コルネリウスが午後の3時に祈っていると、天使が来て呼びかけました。「ヤッファに人を送って、ペトロを招くように」と言われます。翌日、コルネリウスから遣わされた3人が旅をして、ヤッファに近づいていた頃です。一方のペトロは、お腹がすく正午頃、我を忘れたようになり、幻を見ました。天から大きな風呂敷のような布が下りて来て「そこに入っている獣や鳥を食べなさい」という声を聞きます。律法で食べることを禁じられている物です。ペトロが「とんでもないです。汚れた物は食べたことがありません」と答えると「神が清めた物を、清くないなどと言ってはならない」との声を聞きます。そういうことが3度あって、布の入れ物が急に天に引き上げられました。ペトロが、「今見た幻は何だろうか」と思案に暮れていると、その所に、コルネリウスから差し向けられた人々が、家にやって来たのです。こうしたことがあって、ペトロは、異邦人コルネリウスの家への招きに応えたのです。
ユダヤ人であった弟子たちが、異邦人(外国人)の家を訪れ、福音を伝えた最初の出来事です。異邦人に伝えた最初の説教・証しです。 異邦人は汚れていると思っていたペトロが言います。「神は人を分け隔てなさらないことが、よくわかりました。」と、そう言って、イエス・キリストについて話しを始めます。ペトロの説教は、使徒言行録2章にもありました。ペンテコステの祭りに集まったユダヤ人たちに向かってでした。旧約聖書で預言されていたメシアが、あなた方が十字架につけてしまったイエスであり、私たちは復活されたイエスに出会ったと説教していました。
ペトロは、コルネリウスと家の者たちに話し始めました。ユダヤ人に対してとは違って、旧約聖書の預言や律法から始めません。イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けてからの話です。イエス様が、ガリラヤから始まって、ユダヤ全土で、人々を助け、癒しをされたことを話します。それは神が御一緒で、聖霊と力を与えられたからです。ペトロをはじめとする弟子たちは、イエス様と一緒にいましたから、エルサレムでなさったことを見聞きした証人です。人々はイエス様を十字架にかけて殺してしまいました。40節、「神はこのイエスを三日目に復活させ、弟子たちに現わしてくださいました。復活された後、一緒に食事をして、弟子たちに現われて下さったのです。 42節「そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。」復活されたことを弟子たちに現わし、イエスが、生きている者も、すでに死んだ者も、つまりすべての人の審判者、最後の審判をされるお方であることを、人々に宣べ伝え、証しするようにと、弟子達に命じられたと…ペトロは語ります。43節で、「預言者たちも、イエスについて、イエスを信じる者は誰でもイエス様のお名前によって、罪の赦しが受けられると証ししています」とペトロは話しました。きっと長い長い話をしたのでしょう。44節で、み言葉を聞いている一同の上に聖霊が降ったと記しています。
教会は、キリストに従う者、弟子とされた者たちの群れです。目には見えませんが、生きておられるキリストに出会い、信じて、罪の赦しを受けた者たちです。わたしたちも、宣べ伝え、証しするようにと命じられています。証しした時、その相手に、聖霊が降って、その人が神を賛美し、洗礼を受けるようになったら、何と嬉しいことでしょう。その喜びを、わたしたちも味わいましょう。何を話すのか。ペトロを初めとする使徒たちが、信じ、宣べ伝えた内容が、私たちが、礼拝の度に告白している使徒信条です。
週報で案内していますが、関東教区の牧師の研修会で、「レクティオ・ディヴィナによる御言葉の黙想と説教」について学ぼうとしています。レクティオ・ディヴィナとは、ラテン語で「霊的な読書」「聖なる読書」という意味です。牧師が説教の準備する時、静まって、祈りつつ、聖書のみ言葉を読みます。黙想します。そうして説教の準備をするのです。私は、10章からの出来事を、大急ぎで、説明してしまいましたが、じっくり一つ一つの言葉を読んで行くのです。一つ一つのみ言葉について黙想して行くのです。レクティオ・ディヴィナとは、修道士たちが、12世紀に取入れた聖書の読み方のようですが、わたしのように、あれこれ雑用をしながら説教の準備をしている者には、静まってみ言葉を思いめぐらすのは、夜中に目が覚めた時くらいかもしれません。それでも、やはり、聖書を読んでいて、心に留めるみ言葉に出会います。そのようなみ言葉から説教をします。この聖書の箇所では「イエスの名によって罪の赦しが受けられると証ししています」という言葉でした。神を知らずに、自分中心に生きて来た罪を、イエス・キリストによって赦されたと、私たちも、証しするのです。
11章では、ペトロが、エルサレムの教会に、異邦人が神の言葉を受け入れたことを報告しています。その中の11章12節で、「ここにいる6人の兄弟も一緒に来て、わたしたちはその家に入ったのです」と言っています。ペトロは、他に6人と一緒に、7人で出かけたのです。わたしたちは、教会での働きを、一人で孤軍奮闘するのではありません。弟子たちと12人で、兄弟姉妹と7人で、一緒に行動するのです。そして勿論、そこに主イエス様が、共にいて、力を、聖霊を、注いでくださるのです。
罪赦された者、罪から自由になった者として、伝道し、証しをします。「あの人のところに出かけて行くように」と、神が示してくださるところに出かけて行きましょう。手紙を書いたり、電話をしたり、メールをしたり。私たちは、今、様々な証しする方法を与えられています。
ペトロは10章34節で「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。」と言っています。今、外国の人に偏見を持ち、分け隔てようと言う流れです。神が受け入れている人たちを、私たちは、分け隔てをしてはなりません。社会の中での教会の役割も心に留めたいと思います。
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